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覚えていること

2011年01月18日
16年前の昨日、僕は大学の研究室で徹夜をしていた。締切に追われ論文を書いていた。周りでも同期の仲間が同じように論文を書いていた。朝の5時位に建物が揺れた。虚ろな声で誰言うとなく「地震だね」と。茨城県つくば市での話。

7時になって、先に帰った後輩から電話があって、「神戸で地震があったみたいですよ。」当時、僕の両親は神戸に住んでいた。5時のつくばのゆれと結びつける頭もなく、ありがとうと礼を言いながら、正直「論文で忙しいのに地震くらいで電話してくるな」と思った。
それから研究室のテレビをつけるとどの局もニュース番組でヘリコプターからの神戸の映像だった。方々で火事が起き、橋が落ちていた。ようやく状況が理解できた。両親の住む賃貸マンションは長田区にあって、近所に背の高いビルはそれしかないので倒壊していないのは分かった。

時間が経つにつれ、火災が激しくなってきた。何箇所からも煙が立ちこめて見え、その情景を筑紫哲也を「温泉街のようだ」と発言し、物議をかもした。テレビで言うことかどうかは別として、確かに例えるならば別府の地獄めぐりのようとしか言いようがない景色だった。

だんだんと死亡が確認された方が増えてきた。その時点ではうちの両親の安否もまだ確認していなかった。携帯もインターネットも身近にない時代、避難した両親にこちらから連絡する術はないので家で電話を待つしかない。

論文もメドがついたので家に帰ってテレビを見た。身元が判明した人の名前が市区町村別に文字と音声で表示されるので、親の名前がないか探した。実は親の安否を確かめるのはその時が2回目だった。1回目は御巣鷹山のとき。父親はJALの飛行機のキャンセルを待っていて、空席が取れなかったので新幹線で戻ってきたのだが、こっちはそれを知る前に登場名簿に載っている500人くらいの名前をテレビで全部見た。そのときに比べれば地震では皆死ぬ訳ではないという気持ちはあったが、それでも兵庫区の人の名前が出ると次が長田区なので緊張した。体のどこかに力が入って「はやく終われ」と祈るように思った。長田区の人の名前が終わり垂水区の人が始まると少しホッとした。これを何回も何回も繰り返した。

次の日の昼、電話がなった。出ると父親だった。父親は、近くの中学校に避難したこと、母親にはタンスが倒れてきて内出血で顔がパンダみたいになっているが元気であることを伝えた後、「やっぱり家は借家に限る」と言った。

この人には一生かなわないと思った。
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